祝100周年(平成24年)通天閣物語

平成24年、通天閣は誕生から100年を迎えます。大阪を代表する観光スポットとして、女性や家族連れで人気上昇。その集客のヒミツ!大阪文化の発信基地として、過去を振り返り、現在、そして100年後の未来構想を、通天閣観光㈱ 西上雅章社長より、熱く語っていただきました。
日 時    平成23年9月7日(水) 
 会 場    大阪商工会議所 地下1階 2号会議室
講 師    通天閣観光(株) 代表取締役社長  西上 雅章 氏 
報告者:甲斐 利國 

①通天閣誕生通天閣は新世界の娯楽場ルナパークのモニュメントとして1912(明治45)年に造られ、現在まで大阪のシンボルとなっている。第二次世界大戦中、鉄材を軍需資材として提供しなければならないこともあり、一度解体された。その後、地元有志の出資により通天閣株式会社が1954(昭和29)年に誕生。そして現在の2代目通天閣が1956(昭和31)年に観光塔として竣工した。高さは100m、名前は「天に通ずる高い建物」に由来している。

 ②大阪商人の心意気、行政に頼らない1953(昭和28)年、商店連合会が中心となって建設資金1億円を調達しようとしたが、6,000万円が不足。これを奈良の奥村組が立て替えた。 

③大阪人の発想のおもしろさ新世界は第5回内国勧業博覧会の跡地利用を目的として、市民の理想的な共同娯楽の場として構想された街。北の区画はパリの街を模した放射状に、南はニューヨークの都市型遊園地コニーアイランドに似せてつくられた。街のランドマークとして建設された通天閣は台の部分が凱旋門、上部はエッフェル塔との合体と大阪人らしい、なんでもアリのユニークなデザインだった。 

④商売人の広告宣伝に対する想い2代目通天閣の広告ネオンが日立モートルに決定した事を知った松下電器(現:パナソニック)の故松下幸之助氏は大変残念がり、東京浅草の雷門に大提灯を寄贈することになる。 

⑤通天閣にビリケンと言う幸運の神様がいる約100年前に米国で誕生したビリケンは日米でブームとなった後、一旦は忘れられる。その後、通天閣に祭られた初代ビリケン像は行方不明になったが、現在のものは2代目である。1956(昭和31)年に建設された現在の通天閣は当初、年間150万人以上が訪れたが、70年代にはその数が20万人を切る年もあった。「すがるような思いからでした」と西上社長。仏師に制作を依頼し、木彫りのビリケン像が出来上がった。今は通天閣の5階でお客様を迎えてくれる。合格祈願、縁結びなどあらゆる願いを聞いてくれる福の神で、足の裏を指でさすって願いを込める。アメリカ人が忘れたものが通天閣で人気者になっている。今では通天閣や新世界が再評価され、相乗効果でビリケン像の知名度も上がっている。  ⑥時代の流れ最盛期には入館者数が年間150万人であったが、テレビの普及で演劇場、映画館が減少し街全体が寂れ、また周辺地域の暴動等もあり環境が悪くなった時期もあった。その後防犯や美化に取り組み、新世界をロケーションとした映画やテレビドラマが制作されたこともあり、街のイメージも段々よくなってきた。今では昭和の懐かしさや大阪の香りが残る数少ない街として、再び数多くの観光客が訪れるようになった。 

<まとめ>西上氏の夢「来年完成の東京スカイツリー(電波塔)には高さでは太刀打ちできないものの、通天閣を大阪らしさ溢れる日本一面白い観光塔に仕上げたい。2012(平成24)年の100年祭に向かって動物園、市立美術館、通天閣のフットワーク(回遊)も充実したい。そして将来は東の浅草、西の新開地との交流も図りたい。」と新世界、通天閣の土地に惚れた西上社長の熱き想いが伝わってきた。ネオンの化粧直しも10月末には披露される(ネオン管の大半をLEDに替え消費電力が半減し、多彩な色のライトアップも可能となる)。講師のお話を聞き、村田英雄「王將」の歌詞のように通天閣は東京に負けない大阪人を元気にする心のよりどころであると感じた。