「サムライ弁蔵 水くわし売り出し181年」~千疋屋総本店のブランド経営~

開催日 平成27年11月21日(土)14:30~16:00
テーマ 「サムライ弁蔵 水くわし売り出し181年~千疋屋総本店のブランド経営~」
塾 長 株式会社千疋屋総本店 代表取締役社長   大島 博 氏
報告者 辻 崇之

 株式会社千疋屋総本店代表取締役社長大島博氏をお迎えし、「サムライ弁蔵 水くわし売り出し181年~千疋屋総本店のブランド経営~」をテーマに講演していただきました。
 現在高級果物専門店として日本一ともいわれる確固たる地位を築いている千疋屋総本店ですが、その歴史は181年前から始まります。
 初代弁蔵様は千疋(現在の埼玉県越谷市)の地で槍道場「大島道場」を営んでいましたが、幕末も近づき、武芸を志す若者も減り、経営が厳しくなってきました。そこで当時千疋で豊富であった果物と野菜類に目を付け、それらを音店河岸から船で運搬し、おやじ橋に陸揚げし、露天商を始めました。おやじ橋は吉原にかかる橋で遊郭の女性に詳しい案内人のような親父さんがいたことからついた通称です(諸説あり)。
 その後「水くわし(菓子)安うり処」の看板を掲げ今の千疋屋の原点となる店を構えました。
 二代目文蔵様の代になり、それまでの安売り路線から方向転換し、今に通じる高級路線に商売が大きく変わりました。それには文蔵の妻むら様が鰹節問屋の娘さんだったこともあり、商才に長けていたことが、文蔵様の大きな支えとなったとのことです。
おかげで当時の偉人の一人、西郷隆盛には「おっかあ」と呼ばれ親しくしていました。
 三代目代次郎様のころ、明治20年の看板には鶏卵、乾海苔、各国乾菓物(ドライフルーツ)、海陸産物とあり、いろいろなものを扱っていたことがうかがえます。
 明治24年ごろに室町に移転し、同じ並びには山本海苔、亻(鰹節)などがありました。
 明治26年ごろには缶詰やワインなども手掛けるようになりました。
大正5年にはフルーツパーラーを開店。このときすでに英語のパンフレットも作成していました。
 代次郎様はほかにも外国産果物に目をつけ、日本に来る外国船の船員さん用の果物を買取り、販売していました。それを聞きつけた外国船船員が売り込みに来ることもありました。また、外国産果物の種子を輸入し、栽培を始められています。
 四代目代次郎様は先代の意思を引き継ぎ更なる品種改良を行っています。
四代目代次郎様は関東大震災も経験し、建て直した店の看板はアルファベットで書かれていました。
 昭和4年には室町総本店ビルが完成し、宣伝用にフォード車も購入しました。
 五代目代次郎様は昭和46年に本社ビルを新築しました。と同時にパーラー部門を収穫の女神から名前をとり「デーメテール」と名付けました。
 六代目は現在の店主博様です。平成10年から店主となり、平成13年千疋屋再構築プロジェクトを掲げ、まずアンケート調査により千疋屋の強みと弱みを把握することに努めました。
 結果として認知度は高く、高品質なものを扱っているということは知られている一方若年層の取り込み不足、デザイン戦略不足、コミュニケーション下手(こだわり商品の良さを伝えきれていない)、時代と乖離した古めかしさ(店舗イメージが変わっていない)ということがわかりました。
 アンケート結果を受け、まず始めに翌年5月から新しいロゴ・マークに変更しました。
平成17年には日本橋三井タワーに新日本橋本店をオープンしました。
一つ上の豊かさをコンセプトに、こだわりと情熱、自信と誇り、他にない自由な発想、フレッシュな老舗、生活の中の存在、独自のスタイル、を核に、時代の流れへの即応力、ブランド拡張力と事業展開、価格と屋号に見合う洗練感と気品、チャレンジングスピリットあふれる社風を手に入れるべく今後も邁進していくということです。
 老舗ブランドの上に胡坐をかくことなく終着点のない時代変化について行こうとする博様のあくなき探究心にただただ尊敬の念を抱く講演でした。