「五代友厚とその後の大阪の企業家たち」 ~小林一三、江崎利一~

開催日:平成28年5月19日(木)

テーマ:「五代友厚とその後の大阪の企業家たち」 ~小林一三、江崎利一~

講 師:大阪商工会議所 人材開発部部長
        (大阪企業家ミュージアム担当)      興津 厚志氏

報告者:伊津田 崇

 今回の講演会では、大阪の商業の礎を築いた五代友厚と、その後を引き継いで大阪の商業を発展させていった江崎利一、小林一三の人となりや生きざまについて講演していただきました。

 実を言いますと、何度も大阪商工会議所や大阪市立大学等に訪問していたのですが、五代友厚の名前も知らず、彼の銅像の前を無意識に通り過ぎていました(大阪には上記を含め、彼の銅像が5体もあるそうです)。

彼の名前を初めて知ったのはNHKの朝ドラ「あさが来た」で有名になってからです。朝の時報代わりに何気にNHKにチャンネルを合せていますが、ある時から妻が「あさが来た」にはまり始め、特にディーン・フジオカ演じる五代様の虜になりました。そんな訳で今回のテーマにとても興味を持っていました。五代友厚とはどんな人物なんだろうか?

講演をお聞きして、これまで朝ドラの中で持っていたイメージとはかなり異なっていることが分かりました。本当の五代は剛直果断な性格で、普段着は穴の開いた和服、郷土料理の薩摩煮を好んで食べたという人物で、ドラマでのさわやかな好青年といったイメージとは全く違っていました(でも実際の写真でもわかる通り、やっぱりイケメンです!)。

五代は酒好きで(これで寿命を縮めることになるのですが・・・)囲碁や絵画も趣味であったそうです(よく打つ囲碁の相手が大久保利通だなんて、凄いですよね)。

幕末の1836年に薩摩藩で上級武士の子として生まれた五代は、大久保利通や西郷隆盛らと同世代で同じ時間を生きてきました。その後、勝海舟と出会い、海外への視野を広げていきます。五代が26歳で上海に密航した際、同じ船で密航していた高杉晋作と出会い、高杉や桂小五郎と、薩長合弁の商社設立を計画したりしています(幕末の著名人が続々とでてきますね)。

五代が27歳の時、薩英戦争が勃発し、五代は薩摩藩の軍艦3隻の中の1隻の艦長として戦いを挑みましたが、あっけなくイギリス軍に捕らえられます。3隻の艦長のうち、1人は捕虜になるのを拒み自決しました。この事件がきっかけで、西郷隆盛を筆頭とする薩摩藩の武闘派とはそりが合わなくなります。彼らは捕虜になるのを拒否し自決した武士を評価し、生きながらえて、もっと大きなことをやり遂げようとした五代を侮辱したのです。

その後、五代は長崎にいたグラバーに匿われ、その才能を発揮していきます。商社合力という血縁・地縁を超えた新しいビジネスモデルを発案し、家業から「株式会社」化へのきっかけとなる仕組みの提言も行いました。

明治維新後は小松帯刀とともに大阪府判事として赴任します。当時、兵庫県判事として伊藤博文が赴任していましたが、伊藤が外国人の多少の悪事は見逃して大利をとるといった裁断であったのに対し、五代は外国人であっても悪は悪として厳正に処断を行いました。

その後、五代は転勤の辞令により横浜に赴任しますが、彼の人柄を慕っていた多くの大阪商人等から戻ってきてほしいとの熱い要望を受け、2か月で横浜の官職を辞して大阪に帰ってきます。そして、33歳からは実業家として大阪の地に残り、商社合力(家業の株式会社化)の実現に注力するとともに、大阪株式取引所(現在の証券取引所)や大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立し、大阪産業の近代化に尽力します。

五代は49歳で持病の糖尿病が悪化し亡くなりますが、東京遷都後、衰退が進んでいた混迷の大阪にあって、その進むべき道を指し示したビジネスリーダーとして、今でもその痕跡を多く残しております。

江崎利一(江崎グリコ創業者)と小林一三(阪急電鉄創業者)については、字数も少なくなりましたので省略しますが、彼らも他の人が考えないような新たな発想から事業を起こし、大阪商業の礎になりました。彼らは「志」を持って、「先見性」「変化」「挑戦」「創意」「自助」「意志」といった企業家精神を発揮して大阪の商業をリードしてきたのです。